ヨサパークもストレスを感じさせない要因

雨が降ってくれば、黄色い光が上から下へと降るように変化する。
さらに建物の上層部には、建物が画した街路の雑踏から発せられる音の波形が視覚化されている。
建築物の壁面を、周辺の環境から取り込んだ情報のインターフェイスに変えたこのデザインは、あたかも都市という巨大な生き物の皮膚のようにも思えてくる。
このように環境情報をセンシングした建築を手掛けた建築家は日本にもいた。
伊東豊雄氏の手による「風の塔」は、メラーと同じような発想でデザインされ、しかも一九八七年施行というから実はメラーよりも先んじている。
横浜駅西口広場にある地下駐車場の排気塔のまわりを網状のアルミパネルで覆い、内部に多数のランプを設置。
センサーがとらえた周辺の風力・風向、音、光、雨などの環境の変化をコンピュータ制御のランプに反映させ、リアルタイムに発光状態を変えていく、というものだ。
しかし、コンセプトとして両者は大変似通っているが、そこから読み取れる情報量の豊かさでいえば、やはりクリスティアン・メラーの作品の方がセンスウェア的かもしれない。
日本の展覧会でメラーが発表した「オーディオ・グローブ」も、非常に豊かな体験をもたらしてくれる作品だ。
円板状の広めのスペースの上に、天井から五六本もの黒く細長い円筒が吊り下げられている。
訪れた人は、その円柱のあいだを歩き、円柱に触れる。
すると頭上からかすかな音が響いてくる。
円筒の音は一本一本異なっている。
歩きながらいくつもの円筒をランダムに触れていくと、微妙に重なり合った音が頭上から降り注いでくる萌かのような感じを受ける。
環境に潜在している微細で豊かな情報を、自分のからだを使って働きかけ、引き出していく-この作品は、私たちがふだんの生活で何気なく行っている「身の回りの環境にあふれる情報とのインタラクション(かかわりあい)」という体験のリフレクター(反射鏡)となっているのではないだろうか。
日本家屋はインターフェイス的建築の元祖建築という実体のあるデザインが、同時に環境と人をつなぐ情報の(センスウェアの)インターフェイスにもなっているというクリスティアン・メラーの作品のようなデザインは、電子メディアやデジタル技術の進展にともなって初めて実現できたように思われるかもしれない。
だが歴史を遡ってみると、インターフェイス的な空間デザインという可能性は日本の伝統文化にすでに先取りされていたともいえる。
センソリウムのプロデューサーである竹村真一は、一九九四年にオランダ・アムステルダムで開かれた「ドアーズ・オブ・パーセプション2」という国際会議の席上で、こうした視点について数多くの具体例を引きながらプレゼンテーションを行い、欧米人が大半を占めた会場から大きな注目を集めた。
私もこの会議に参加したが、日本の伝統文化を懐古的・守旧的に美化するのではなく、次世代のデザインのための豊かな鉱脈としてとらえる視点は非常に新鮮だったし、そこを出発点にして竹村とともにセンソリウムをはじめとするプロジェクトに携わりながら多くのことを学ぶことができた。
竹村によれば、そもそも日本家屋を構成する部屋には西欧のインテリア空間とは違って、あらかじめ決められた機能や意味づけがなく、非常に「文脈依存的」だった。
日本の伝統的な家屋では、ひとつの部屋が卓祇台を置けば食堂になり、布団を敷けば寝室になり、大勢の来客が来た時には襖を取り払って隣の部屋と一体化させた大広間にすることができた。
いってみれば、日本家屋はパーソナルコンピュータのように、目的や状況に応じてソフトウェアを変えてさまざまに機能を拡張できた。
しかも、そのソフトウェアは人々の身体文化のなかに蓄積されていたのであり、空間は生活という文脈(コンテクスト)と使い方というソフトウェアによって柔軟で汎用性をもっていた。
こうした人に属するソフトウェア(というよりユースウエア)を重視する日本文化は、箸や風呂敷のように、使い手である人の知識や経験によって機能が決定されていく道具のデザインにも反映していることはいうまでもない。
さらに重要なポイントとして竹村が指摘しているのは、日本の建築空間が西欧のそれのようにインテリア(内部)を外界から壁で遮断して囲い込むのではなく、内と外とを隔てながら一方では両者のあいだにコミュニケーションが成立するような、まさにインターフェイス的な面を重視していたということだ。
日本文化論で必ずといっていいほどその重要性が指摘される「間」は、西欧でいうところの「不在」や「欠如」ではなく、外部からの情報を内部に招き入れて編集するために不可欠なインターフェイスだったというわけである。
たとえば、縁側という、外部でも内部でもありうるような空間はその典型だろうし、縁側の軒先に吊るされる風鈴が環境情報のセンスウェアだったということはこの章の最初で述べた通りだ。
あるいは、床の間に飾られる掛け軸は、それらは自己完結した「作品」というよりも、その季節ならではの風物が描かれたり、和歌が詠み込まれていて、人がそこを通して外の世界を感じる一種の情報のウィンドウになっていた。
日本庭園によくみられる「借景」という概念も、庭のすべてを完全につくり込むのではなく、一部にブランクを空けておき、京都などではそこに遠く東山の風景が入り込む、といったように外部の環境を取り込むようなデザインがなされていた。
あるいは庭の築山を富士山に「見立てる」といったことも、そこにあるモノをメディアとして別の存在を呼び込むウェブのハイパーリンクのようなデザインであったといえよう。
いってみれば、日本の伝統的な空間は、その空間自体で決して完結するのではなく、あちこちに情報のクリッカブルポイントが存在しており、人が自らのソフトウェア(知恵や経験)を働かせてそれらのポイントをクリックすることによって、外の環境や過去の文化的な資源へとアクセスしていけるような豊かな情報デザインが施されていたのである。
別に私はナショナリストのように自分の生まれた国の文化を闇雲に称揚するつもりは毛頭ない。
重要なことは、伝統文化を単に美学として称揚するのではなく、そこから抽出されたデザイン原理を、未来のデザインに転用できる実践的な方法論として高めていくことができるかどうか?
竹村の主張はその意味で重い意味をもっているのではないか、と思うのだ。
この世界に情報は充満しているさまざまなセンスウェアの試みや実体のある建築に備わっているインターフェイス性について考えていくと、改めて情報デザインという営みにとっての「環境と身体のかかわりあい」という問題を避けて通るわけにはいかなくなる。
これまでの典型的な情報デザインでは、出版物やデジタルコンテンツのような「メディアのなかで表現される情報」を対象として、そこにどんな情報をどのように入れ込んでいくかといった点に、大きなエネルギーが注がれてきた。
情報は、人がこの世界のなかで他者とコミュニケーションしたり環境やモノとかかわったりしているような複雑で多様な経殉験から「切り離され」、紙やデジタル媒体などのメディアに「閉じ込められる」ことで初めてデザインの対象になりえたのである。
しかしながら、情報を、それを生み出す人や環境と切り離してしまうことによって、デザインは一見やりやすくなるように見えながら、その反面で大きな誤りを抱える場合もある。

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